170余年続く大宮盆栽・蔓青園の5代目、加藤崇寿さん。盆栽は継承の美で、盆栽を取り巻く文化もまた、継承されるもの。それらの重みを一番知るはずの加藤さんが、いまの盆栽で本当に良いのか…と疑問を投げかける。
いま審美眼が求められている。加藤崇寿
立ち止まるのではなく、立ち返る
僕の考え方を最初に言いますね。生きとし生けるもの、自然界でもっとも不自然な存在であろう人間。この人間の自然、特に草木に対する美意識の発露が、盆栽の元始と言えます。そこには、自然界に生きる草木をより忠実に捉える中で、その真髄に気づき、昇華させる「らしさ」を追求する方向性と、人間の考える樹に対する理想形により重きを置く志向とが共存しています。盆栽は人間が生み出す自然美であるが故、この共存は必然とも言えます。僕自身の志向は「らしさ」の希求です。
加藤崇寿さんの話は、のっけから深い。人間が考える自然美を前提にした上で盆栽に向き合わないと、意味がない。盆栽とは絵を描くように、自分の中で希求する姿があり、それをどのように具現化するかが重要なのだ。
昔のほうが、その感覚が鋭かったですね。自然を観察し、自然に習った上で、「らしさ」を追求していますから。
僕は国風賞の数も多いと思いますし、オーソドックスにやっているほうだと思います。そんな僕が誤解を恐れずに言うなら、国風展の盆栽は本当にいいものなのか? アート感覚に鋭い方が国風展の盆栽を見て、感動したり、居心地がいい、気持ちいいと感じるのか? 僕は△だと思います。そこがいまの問題で、そこを解決しなければならないと思っています。もちろん商売もあるし、看板もあるから、いまの路線も必要です。でも、そうではない盆栽も認めないとダメだな…と。何でも自由というわけではありません。やはりアカデミックな蓄積は必要で、それを踏まえた上での話です。
盆栽は国風賞、内閣総理大臣賞を取ればいいだけでは、先に進めないと加藤さんは言っているのだ。いま、盆栽とは何かという審美眼が求められている。「売れる=いいもの」なのか? その感覚が強くなってきてはいないか? それでは行き詰まるのではないか? だからこそ立ち止まるのではなく、立ち返ろうというわけだ。
さらに加藤さんは、盆栽の楽しみ方についても、一石を投じている。
愛好家が盆栽をはじめるパターンは、まず盆栽に興味を持ち、気に入った盆栽と出会い、手に入れて、大事に育てていく。人間と盆栽が一緒に暮らす。それが理想だと思います。ただね、いまの時代には「育てる」「一緒に暮らす」という部分がハードルになる方も少なからずいらっしゃいます。
僕はそこを工夫していて、「鑑賞」に特化した楽しみ方も提唱しています。例えばリッツカールトンのお客様には、お部屋に盆栽を飾り、愛でていただいております。水はあげていただいてもいいし、そこがストレスになるくらいなら、コンシェルジュに任せるのもよいでしょう。
家具やライフスタイル雑貨を扱うTIME & STYLEとはコラボレーションしており、ミッドタウンのショップでは現代のライフスタイルと日本の伝統的な美意識の融合をテーマに、家具やテーブルウェアとともに盆栽も飾っています。このブランドは、オランダ・アムステルダムにも自社店舗を構えており、そこにも盆栽を100鉢ほど送りました。
この他、羽田空港のような公共交通施設で盆栽を展示したりと、私の代になってから新しい試みにもチャレンジしています。
盆栽そのものには伝統と革新を。盆栽の楽しみ方には愛培と鑑賞を。そういった取り組みをしなければ、盆栽界の未来は明るくない。格も上がらない。そういう危機感があるからこそ、加藤さんは苦言を呈しているのだ。
異業種とのコラボレーションを通じて、盆栽がより広まり、ステージが上がることにも期待したい。
蔓青園への問い合わせ先
埼玉県さいたま市北区盆栽町285